ファイトソング 10話(最終回) 感想|ベタな群像劇になってしまった理由を考えてみる

 

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「終わった」というより「終わらせた」感満載の最終回でしたね…。

登場人物が多いとそれだけ話の幅は広げられる利点はあるけれども、

その作りに限って、最終回"だけで"全ての着地点を描こうとしがち。

これでは、物語の展開が駆け足であっさり気味に見えてしまうし、

花枝(清原果耶)が頑なな性格なのにも説得力がないように見えてしまう。

うーん…せめて、「ファイトソング」にちなんで、先に恋が成就した(しそうな)

直美(稲森いずみ)と智也(戸次重幸)のエピソード、

慎吾(菊池風磨)と凛(藤原さくら)のエピソードを前回の終盤に持ってきて、

「次は花枝の番だよ」と背中を押す…という流れにした上での今回の方が、

芦田(間宮祥太朗)に心が解かされるのにもまだ頷けたのかもしれません。

 

いや、物足りなかったのは最終回だけではありませんね。

総じて言えば"欲張り過ぎ"な作品だった…に尽きるでしょう。

では、なぜそうなってしまったのか?

なぜベタな"群像劇"でまとまってしまったのか?を自分なりに考えるとすると…

恐らく、メインの「耳が聞こえなくなった」エピソードを掘り下げず、

花枝が挫折から立ち直るための一種のアイテムとして

他と同等に扱ってしまったのが原因なんだと思います。

 

本作ならではの要素が何かって言ったら、主人公の耳が聞こえない設定くらいで、

それにまつわるろう者のエピソードや演出を除けば、

あとはこの枠でもよくあるラブコメディに落ち着くんですよね。

「恋の取り組み」というワードも、あたかも斬新な印象を持たせていますが、

恋愛初心者が経験値を積み、恋とは何かを知る指南モノと同じ括りになる。

なので、全体を通して見たら、特に真新しさはありません。

だからこそ、耳の描写を深堀りするべきだったのに、

「聞こえていた自分」から「耳の聞こえない生活に慣れた自分」までの

2年間をすっ飛ばしてしまった事…これが個人的には大きいんです。

2年という長い期間、花枝は密度の濃い経験をいくつも味わってきたのではないでしょうか?

 

例えば、昔なら当たり前に聞こえていたものが、ある日を境に

まるで異世界にいるかのように聞こえなくなってしまった時の動揺。

それに慣れるための苦悩や訓練。

耳が聞こえなくなった自分だけが感じている事。

逆に、周りが気づいて、自分だけが気づかなくなった事。

いろんな経験を過ごしていたはず。

途中で"先輩"となる葉子(石田ひかり)のエピソードを挟んで

参考にしているような描写をした割に、

その機微な心情変化を丸々省略しているのであれば、

耳の設定を加える必要もなくなってしまうのです。

 

そこで、素人ながら1つ提案させていただくとするなら…

「小さい頃から欠かさず聴いていた曲」という設定は同じにして。

耳については"途中から"聞こえなくなるのではなく、

"大人になってから"(初回で既に)聞こえなくなっていた設定にしておけば

上記の数々の違和感は払拭され、

耳の聞こえない主人公がミュージシャンと出会い、1つの音楽を作り上げていくまでの物語として

2人の関係性の描写に没入出来たんだと思います。

初回で初期設定を済ませておけば、あとは説明はいりませんしね。

 

この枠ではありがちな俺様キャラや、元カノやライバルが出てきて引っ掻き回すキャラは、

(そこは岡田脚本らしさだと思いますが)本作では珍しく登場せず、

そこは見やすくて良かったですが…

全体の話の構造の粗さや胸キュン演出に"本作も"押し潰されてしまった感は強い、

個人的には惜しい作品として記憶に残りそうです。

 

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